加納城
別名 鹿納城 | 付近住所 岐阜県岐阜市加納丸之内 | 現在- |
2007/9/15 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
旧加納城主 斎藤利長 長井利隆 江戸時代以降 奥平信昌→ 奥平忠政→ 奥平忠隆 断絶 騎西藩より 大久保忠職→ 明石藩へ 明石藩より 戸田 松平光重→ 松平光永→ 松平光熙→ 淀藩へ 備中松山藩へ 安藤信友→ 安藤信尹→ 安藤信成→ 磐木平藩へ 岩槻藩より 永井直陳→ 永井直備→ 永井直旧→ 永井尚佐→ 永井尚典→ 永井尚服 |
徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌を加納城主として10万石を与え、また亀姫の粧田として2千石を給した。 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、ニ之丸、三之丸、厩曲輪、南曲輪(大薮曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭であった。 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年加納城第16代城主、永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。 加納城跡は、この本丸のほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。 加納城は、徳川家康が慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大薮曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。 初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以降代々の城主は譜代大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶことができます。 今あなたが立っているところは本丸の北門にあたります。本来の本丸の出入り口である大手口は東側凸字形に出っ張った部分にありました。これは「外枡形」という、徳川氏が初期に作った城の特徴といわれる形です。 昭和58(1983)年に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋れているのが確認されました。また、本丸の堀の底には「堀障子」と呼ばれる畝状の仕切りがあったことも分かりました。 城下町は加納城の北から西にかけて造られました。町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。 美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦時代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以後も加納の伝統産業として受け継がれてきています。 史跡「加納城跡」本丸の石垣 この後に見えるのは加納城本丸北面の石垣です。岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。石は、角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。石垣の角の部分は「算木積み」という横長の石を交互に組み合わせた積み方が認められます。 この石垣は、「野面積み」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初めの頃の姿を留めています。これほど良好に近世初頭の石垣が残存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。 |